生い立ち

私は両親の実家がある富山で生まれました。兄弟は弟が2人です。
父は典型的な仕事人間で、帰宅は深夜、土日もほぼ仕事か一人でサウナへ。学校行事には一切参加せず、家族との関わりはほとんどありませんでした。
母は専業主婦で、極度の人見知りで病弱、そして完璧主義な人でした。また母は頼まれごとを断れないため、そのストレスを家族にぶつけていました。
家庭内では母の機嫌にいつも振り回され、幼い頃から私は弟の世話や家事をするのが当たり前でした。サボると「何様のつもり?」と怒られ、時には無視されることもありました。
父は転勤が多く、私は幼稚園を2回、小学校を3回かわりました。新しい環境に適応する力はつきました。しかし、友達との別れに心の整理が追いつかないまま、新たな関係を築くことに悩む子ども時代でした。
初めての反抗

中学生になると、母の言動に違和感を覚え、心理学や哲学の本を読み漁るようになり、母はうつ病やヒステリーではないかと思うようになりました。
そして、自分の本音を一切言わないようにしてなるべく怒られないように率先して家事をこなし、父への愚痴を聞き、セールスの電話を断って母の機嫌を取りながら弟の面倒を見る毎日。その頃には言い返しても更に怒られるだけなので、「母は病気だから仕方がない。私さえ我慢すれば上手くいく。」と思い耐えていました。
また学校で嫌なことがあり、母に相談しても「それは今まであなたが他人にしたことが原因で起こっていることだから仕方ない。全部あなたのせいよ。」と言われ、登下校中、痴漢にあったり、男の人に追いかけられても私の行いが悪いせいだし、父には私につけ入る隙があるせいだと言われて育ちました。
ある日、母のヒステリーに私の我慢が限界にきて、「お母さんの言われた通りにしていたのに何が悪いのか論理的に説明してほしい」と泣きながら訴え部屋に閉じこもりました。母は何もいえず、代わりに父が「お母さんも反省してるから許してあげなさい」といいました。それ以来、母の態度は少しずつ変わり、「家事や弟の世話をしてくれてありがとう。頼りにしてる。」と言われるようになりました。
高校〜短大
高校は先生と親の勧めで、家から自転車で20分の県立高校に進学しました。
朝課外や寒稽古、0時間目があり大変でしたが、仲良しの友達がいるので学校は楽しかったです。私は外では友達が多く、先生からはいつも冷静で頼りになると学級委員や不登校の子のお世話を任されることが多かったです。
そろそろ進学先を決める時、両親にどこの大学でも良いから大学に進学するように言われて、広島大学の心理学部を志望しました。
しかし、高校3年の2学期になり、突然両親から「下に2人の弟がいるから、家から通える国公立か短大にしてほしい」と言われました。志望大学の願書を提出する直前の方針変更に、絶望しか感じませんでした。私はいつも我慢しないといけない?
家から通える国公立大学には興味のある学部がなく、何も思いつきませんでした。結局、両親の希望通り短大の英文科を受験し、片道2時間かけて家から通いました。
そんな私を不憫に思った父が、姉妹校の交換留学プログラムに参加させてくれました。ミネソタ州立大学での1か月間は、私にとって初めて「自由」を感じました。現地で色々な人に出会い世界の広さを肌で感じ、自分が小さいことで悩んでいるように思えました。そして、与えられた生活の中から、小さい良かったを見つけて感謝をしていこうと思うようになりました。
社会人1〜5年目
初めての就職
短大卒業後、父に急かされ、夏休み前によく調べずに急いで決めたリゾート開発会社に就職しました。でも、そこはブラック企業でした。ニューヨーク・フロリダ・ハワイでの研修費用は会社負担で行けると聞かされたのですが、出発前日に「1年以内に辞めたら旅費全額自己負担する」と誓約書を書かされました。また本社勤務のはずが1年間現場勤務となり、残業代も支払われませんでした。
半年後、新入社員20人のうち半数以上が辞めました。私も早朝勤務と夜勤務の繰り返しに体調を崩し、両親に相談しても「1年間は頑張りなさい」と言われました。しかし、緊急入院をきっかけに退職し、実家に戻りました。
この経験から、私は「自分の人生は自分で決めることの大事さ」を感じましたが、やはり親や周囲の意見を優先してしまう自分がいました。
転職から結婚まで
自宅療養中も母が「すぐに次の会社を探すように」とヒステリックに言うので、私はソフト開発会社のプログラマーに転職しました。 3ヶ月の研修を終えた後、すぐに仕事で技術をどんどん習得していきました。時には客先の会社で他人のバグを修正したり、他社のSEと共に派遣先でソフトの開発・納品をしたりして技術を磨いていきました。その頃、SEの仕様書の不具合を指摘・修正の提案をするようにもなりました。
しかし、バブル崩壊で景気が悪くなり、社長と幹部5人を除いて全員が解雇されました。
その後、社長に呼ばれ、私だけ再雇用で大手の製作所への派遣が決まりました。そこで夫と出会い、交際しました。当時、両親からお見合いを勧められていた私は、すぐに彼を紹介し、結婚しました。
田舎でのワンオペ育児
産休を取って息子を出産後、突然夫が「今の会社ではやっていけない。田舎でもっと家族と一緒に過ごすために転職をしたい」と言い出しました。夫の強い希望で、半年後、私は会社を辞めて専業主婦になり、知り合いも親戚もいない大分へ引っ越しました。1年後、夫の強い希望で一軒家を建てるために更に田舎へ引っ越しました。
しかし、夫は残業で午前様の毎日。あまりの寂しさに夫に「話が違う。何とかして」と言うと「子どものお風呂の時間には帰宅し、お風呂に入れ、夕飯後、また会社に戻る」ようになりました。でも、孤独感は拭えず、電話で母に息子の話をすることが心の支えとなっていました。
その頃、ご近所トラブルでハブられた私は、夫に言っても取り合ってもらえず、孤独の日々。自暴自棄になった私は母に電話をかけました。 ご近所トラブルのこと、夫のことで傷ついたことを話しました。その時、母が話を最後まで聞いて「因果応報よ」と言わなかったのは初めてでした。私は、母に初めて本音を話して、受け入れてもらえて、胸のつかえがとれました。思い切って、昔、母に言われて傷ついたことをも打ち明けましたが、母は全く覚えていませんでした。
上の子が小学校に入学する頃、下の子の出産も重なり、頼りにしていた夫は東京に単身赴任となり、特別措置で県外の実家で里帰り出産し、上の子は私の母校に入学し、1学期まで過ごしました。 その後も、夫はほぼ単身赴任状態。子どもが熱を出すと、1時間かけて小児科のある病院に連れて行きました。
しかし、田舎は運動会や地区の出ごとや三世代交流、草刈りなど地域密着型の行事が多く、普段はワンオペでなんとかしてたけど、やがて限界になり、子どものために思い切って親や周囲の人を頼ることにしました。周囲の協力のお蔭で、なんとか笑顔で乗り切れました。
お互いに歩み寄る努力のお陰で、母との関係も少しずつ良い方に変化していきました。私は母に会うと必ず褒めるようにしました。
下の子が小学生になる頃、家計の負担が増え、パートに出る決心をしました。きゅうりの収穫アルバイトからはじめ、放課後児童クラブとコンビニの掛け持ちを経て、小学校の支援員で現在に至ってます。その間、上の子の野球部の会計、地区長、交通安全委員、広報委員長と下の子の剣道の会計と学級委員の役員が重なった時は記憶も曖昧なほど忙しかったです。
母の癌と向き合う
下の子が大学生になった頃、母が癌を患いました。まだ過去のわだかまりを捨てられず、完全には母を許せていなかった私は、手術の前日、母に初めて感謝の手紙を書きました。母は泣いて喜び、私も泣いてようやく母を許し感謝することができました。 手術は成功しました。しかし、抗がん剤治療を続けても母の数値は改善せず、次第に母は痩せて48kgあった体重が32kgまで落ちました。
母のことは気になるけど、子どもの仕送りもあり、私は仕事を辞められませんでした。でも、後悔しないために毎週末片道3時間かけて、実家に通いました。
その甲斐あって、最後の一年間、家族で温泉へ行ったり、美味しいものを食べたり、2人でカフェに行ったり、かけがえのない時間を過ごしました。
とうとう、お別れの日がきました。弟から母の調子が悪く、何も食べないようになったと聞きました。急いで実家に帰ると何も食べられなかったはずの母が、私が持っていった大好物のスイカを口にしました。その後、私の作ったポトフやゴーヤチャンプルー、ドーナツを美味しいと食べてくれました。 翌日も、その次の日も食べ、私は安心した。「また来るね」と帰る私を、母は笑顔で見送り、2日後に天国へ旅立ちました。
転機としての母の死
父は認知症で要介護1でした。その上、全く家事ができません。母は、そんな父のことを最後まで心配していました。
夏休み中、父に家事を教える日々が始まりました。1か月かかって、父はご飯とカレーなら作れるようになりました。
夏休みも終わり、母の四十九日を終えて、自宅に帰り1人きりになって、ふと自分は家族を大切にする一方で、いつも自分のことを後回しにしてきたことに気づきました。
在宅ワークへの転職 ― 自分らしさを取り戻す一歩
これまで私は、家庭や職場で母や家族や他人の期待に応え続けることで、自分の存在意義を感じてきました。母の死という大きな喪失で、ふと立ち止まり「私の人生、今のままでいいの?」と自問自答するようになりました。ずっと誰かの期待に応えようとしてきた私。しかし、心の中には「自分も大切にされたい」という願いがありました。
しかし、結局、父の見守りや薬とお金の管理もあり、週一で実家に帰り、クタクタの日々。
自宅へ帰る運転中にタイヤを縁石にぶつけて何度かヒヤッとしました。そんな時、私は在宅ワークという選択肢に出会いました。これまで仕事と家族のことだけで終わっていた時間。在宅ワークなら、家族との絆を深めつつ、自身の心や体を大切にできる未来が見えたのです。
在宅ワークへの転職は、決して簡単な決断ではありませんでした。ずっと家族や他人を優先して生きてきた自分が、初めて自分も大切にできる生き方を選ぶ。その一歩には、不安や葛藤もありました。
しかし、母との最期の温かな時間や子どもの独立で1人の時間ができ、これから父の介護などを考えると新たな一歩を踏み出せることができました。
この決断は、私自身が自分を取り戻すための大切な一歩であり、同じように家族を大切にしながらも、自分らしさを大切にしたいあなたのお役に立てればと願っています。